見せられているのか?見ているのか?①
見せられているのか?見ているのか?②
「見る」という姿勢
いいものも、わるいものも、色々な情報に目を通すようにしている。
それは、本を読むときもそうだ。
駄作も、傑作も、必ず読んで、自分で判断する。
肩書きや、人の批評には惑わされない。
いつでも、「見ている」姿勢を保つ。
「見せられる」という姿勢
幼いころから、占いというひとつの情報に触れてきて、先に言ったように
占いという情報を前にすると、思考停止状態に陥る人が多いということを目の当たりにしてきた。
それは鵜呑みにする、という受動的な行為もあれば、完全拒否という能動的な行為もある。
よく言われるのは、
「人が12分類で分けられるわけがない」
「同じ年生まれの人がみんな同じ運勢などあるわけがない」
「テレビの占いはチャンネルを変えると同じ星座なのに行っていることがバラバラ」
「占いなんて所詮そんなものだ」
という一連の流れ。
よくある。ありすぎて笑いが出るくらい言われること。
そして、それらは、ある種の侮蔑や嘲笑を伴って送られる。
しかし、これこそ、「見せられている」ものをそのまま占いとして受け取っている典型的な例。
私は「見る」ことを選択した。
「見る」ことを選択してくることで、「見えてくる」こと
どうして、12分類で人の人生を決められるのか?
同じ星座なのに、全然違う人がいる。
星座占いって何?
西洋占星術って何?
自分で情報を集め、見た。
そうすると、わかってくる。
自分たちが見ていた(と思っていた)ものは、「見せられていた」のだと。
私たちに表面上見えている部分はほんの一部のものなのだと。
これは、占いだけの話ではないのだ。
本当に、本物の専門分野を持ち、究めている人は同じ真理に達している。
専門分野が違っていても、本質をついているとき、一瞬で分かり合える。
それは、「見せられている」か「見ている」かの違い。
どんなにレトリックやテキストをつくろっても、
コンテクストで見れば、本物なのか、偽物なのか、わかる。
コンテクストの中に自分軸はある。
おわり